8回           2007.july.5              金子信造

 柳生新陰流「兵法家伝書」で柳生宗矩は「心をすてきって、一向に私も知らぬのに、適うのが、この道の至極である。」ある事に執着して、その方にいってしまっている心を放して「放心のままなのに自由自在」な働きである「神通神変というは」「何事をするにも、自由自在に働く」ことをいう。宗矩の禅の師である沢庵禅師の「不動智神妙録」では「心を一所に置くのを偏に落ちるという」「正とは何処へも行き渡っていることをいう」全身に延びひろがって行き渡る身体の智が自(おの)づから然(そ)うなる事象となってあらわれる。心=行為なのである。

 オイゲン・ヘルデルは「日本の弓術」(岩波文庫、柴田冶三郎訳)で弓の稽古は技術を磨いて、的にうまく当てる訓練をするのだと思っていたが、「心で引くのだ」と師にいわれ努めたら「故意に無心なのだ、それではこれ以上進むわけがない」といわれてしまう。師は「あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを学ばなければならない」というが、ヘルデルは「しかしそれを待っていると、いつまで待っても矢は放たれません。」私が射るのでなく誰が射るのだと思う。師は事実で示す、ほとんど見えないほどの蚊取線香の火で的をかすかに照らし、二本の矢を正中させる。そして「中る」ということが「私の意識の対象でも、手中にあることでもないことを知った」のである。ただ「射るということが」起こるのである。

 

 私という主観が実在すると思うのは、脳の働きそのものの性質にある。脳は変化・流動している事象を、変化・流動のままに捉えられない。静止させ、その静止形が同一のまま続いているかのように概念表象を作る。

 しかし生命体は事象と一つのままに、変化・流動のままに行為して生きる。そこに受容し合い=行為しあって、あらわれているのである。脳はこうした生命体の身体知(全体知)に支えられて働いているのであって、その逆ではない、この身体知こそが根源知なのだ。

 脳のつくりだす表象=ことばは変化・流動の現実世界の静止画的うつしであり、それによる科学は百パーセント仮説であり、ポパーのいうように科学と非科学の線引きは、科学が反証可能なものなのだということにある。フッサールが「科学の危機」を切り開こうと提唱した“現象学“が「生活世界」に知の根源を求め、メルロ・ポンティが「知覚の現象学」をはじめ「見えるものと見えないもの」等で身体知の哲学を追求し、いま身体論、心身問題が思想界で喧しい、21世紀は科学も哲学もこれをめぐってパラダイムシフトしてゆくと思われる。

 

 身体操作については、人間は二本足立ち、そして脳の発達とともに、むしろ不自然になっている、というより進化の未発達な状態にある。「進化論」で有名なダーウィンの「ミミズと土」(平凡社、渡辺弘之訳)はミミズが自然と一体となって動いていることの見事な観察記録である。(進化の意味を考えるにも好記録である) そこに述べられていると同じように、生物としての人間が自然と一体になって、そこにおのずからあらわれる武道の“ふしぎ”を現成するには、ヘルデリが、まず脱力から教えられたように、生物としての自然=身体を素直にしなければならない。人間は未発達で己が身の侭ならぬ生き物なのである。この未熟者の人間は文明の利器と称する人工物に囲まれながら、素直な身体を作り上げてゆかねばならぬという他の生物にはない困難を抱える厄介な動物である。そして環境に対する“適応度”の高いものが自然界や社会のなかで生き残る確立が高いという“淘汰”の歴史からして、環境と一つとなる真っ当な生き方=行為の出来ない生物に、未来は開けない。

 現在まことに雑多な武道書が氾濫しているが、迷路に入り込まないよう、私の学生時代に武道青年なら必読書であった、心理学の立場から武道論を分析した「勘の研究」(講談社学術文庫、黒田亮著)を是非読んで自分で考える力をつけるようおすすめして、事象と人間の行為のあり様についての私の考えの略述をひとまず終える。                 

(この項 完)

実技演習

@     胸襟取り 各種

合気道の技は、隔離で相対して行うのが通常である。襟や袖を取って行うのが普通である柔道との違いとみなされている。

 しかし、当然組み合ったり、襟を掴んだりということは対すれば起こることであるから、そういう場合の気結び、合気について学ぶ。

 文で記述を試みたが、到底伝えきれないと考え、実技によって示しながら口述する。

別の機会に記述にも挑戦してゆこうと思っている。

襟を取って引き付けてきた場合、その場で襟を巻き込んで固定しようとしてきた場合、襟を掴んで押し込んできた場合など様様な場合があり得るが一々別々な応対             をする訳ではない、様態としては別々だが気結びにおいてふれあいの一瞬に一体化するのにあれこれの違いはない、このあたりが文章にしがたいところである。

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