第14回    2008.Jan.10.                      金子信造

新年おめでとうございます。

正月は歳神(としがみ)様を迎えるカミマツリである。「とし」は穀物、特に稲、またその実りを意味した。古代に漢字が入ってきた時、「稔」に「とし」と「みのる」という訓をあてた。稲は普通一年に一度実る事から、「とし」が一年の単位をあらわす言葉となった。

歳神は稲の実りをもたらす神である。「お年玉」も歳神の霊力である、稲魂(いなだま)のことで、これに触れることで「幸福」(さきはひ)をうることができると考えられた。

「おめでとう」は「愛(めで)甚(いたし)」で「はなはだしくめでる」、即ちすばらしいことから慶賀すべき事を意味する。

 

さて第12回の「古事記」冒頭の句についての続きである。天(あめ)は虚空(そら)のうえにあって、「天神(あまつかみ)たちの座(まし)ます御國(みくに)なり」(記伝)(今回は時間に追われ典拠や引用文の正確を期しがたい、この文は電車の中でパソコンをたたいており資料に当たる事が出来ない)。古代では雷を「神鳴り」(かみなり)、「厳ず霊」(いかずち)といったように自然現象は神威のあらわれととらえられ、神威の根源はアメに在ると考えられ、アメの世界を高天原とよぶ。

天から雨がふり、大地を潤し「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」の豊かさを齎し、「うみ」にいたる。「うみ」は、海(うみ)であり湖(うみ)であり魚貝等をめぐむ。こうしてアメは天地(あめつち)を循環して生命を育み、人々に恵みを与える。                   (続く)

 

 

 

実技演習

 「合気道の体術ができれば、剣術もできねばならず、杖術も薙刀もそれに応じて、自在に使いこなす事ができねばならない。」(開祖監修、二代道主著「合気道技法」昭和31年刊)とあるが、近年は剣や杖の稽古はめったに見られない。剣、杖を体の延長としてわが身を操作すると同様に使えればよいとして、剣、杖を執って振ってみれば、はじめは思うように振れない事はすぐ分かる。

 剣や杖の素振りや、型を学び稽古するうちに自己の他物である剣、杖に自分の意(こころ)を発揮するには、それらに固有のありかたと自分が一体化しなければならないことが理解され、物として道具を使う事が自然の理の会得なのだと分かってくる。これは自然(宇宙)との一体化、ムスビの体得へのひとつの道である。

 私は今から20年、30年前頃までは、随分「剣の理」ということを聞かされ、今でも体術の会得に有効な稽古法であると考えている。

 

片手捕り

@     互いに右半身に対す。

A     取は膝を緩め(腰は必然的に落し気味となる)左手で鞘の鯉口を握り(親指の腹は鍔へかけ)、右手は鍔際を握り、刀を鞘ごと左に捻り気味に、ヤヤ前方に抜き出し刀身を抜きださんとする気勢を示す。

B     受けは三角に取の右に踏み出し、右手で取の右手首を捕り、抜刀を制する。

C     取は制せられるや、左足を左方に踏み、踵を地に据え、右足は一歩前進し(時計回りに円を描く)、丹田を終始受けの中心軸にむけ、鯉口を切り、序破急に抜刀し、そのまま切り下げる。受けの右腕は螺旋に内旋し重心は、取の丹田に吸収され、取はわが身を操作する如く受けを操作できる。

この理を体術で

   片手取り一教   四方投げ  入り身投げで稽古する。

形だけできてもムスベないから、ムスビの実が身になるまでユックリ味わうようにする。

 

双手捕り

@     互いに右半身に対す。

A     取は抜き身の刀を正眼に構える。

B     取は振りかぶる気勢を示す。

C     受けは、取りの右に三角に入り、両手で取りの右腕を振りかぶらせまいと制す。

D     取は、受けの制止にかまわず、刀を振りかぶり(大上段まで)、受けが仰け反ってはずした重心を、丹田に収め取り、受けの身体操作をわが身同然にする。(丹田を受けの中心軸に合わせて前進、切り下げれば受けは崩れ落ちる)。

この理を体術で

  双手捕り一教  入り身投げ  四方投げ  抱え捕り腕拉ぎで稽古する。

形ができても、はじめは物まねで、なかみがない。しかし実を消化し身につけるには形で稽古しなければならない。ムスビをうむための形を稽古しなければ、ムスビはうまれない。勝手な思いこみの動きは、使い慣れ、こなれるほどに人間技に固着させ(これをくせという)、武道の技にはならない。                          

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