第16回         2008.March.06       

金子信造 

 正月以来、「武産合気」「合気神髄」「合気道のこころ」等々をかなり丹念に読んでいる。

私の構想は、開祖のおっしゃる「天の浮橋にたたなして」、「神ならい」、「禊」、「祓」う、「神業としての合気」を練る等々の言葉の出典として「古事記」を読み、言霊については山口志道の「水穂伝(みずほのつたえ)」、中村孝道の「言霊真澄鏡(ことたまますかがみ)」、

出口王仁三郎の「言霊の大要」、「大本言霊解」、「霊界物語」等々にその出典を示して、図解的に全体構造を記述すればバラバラでは関連の分からなかった、開祖の“ことば”を理解できるようになるだろうというものであった。

 開祖は「合気神髄」で「布斗麻爾(ふとまに)の古事記」の実行が最も大切なのだとおっしゃっておられる。これは日本人の原思考“やまとだましい”(やまとこころ)を内包し発現する基である。

 大和魂と言うのは万物に神の現われを見、自然を対象ではなく自己と一体だと見る、西洋の思想から見れば“アニミズム”と呼ばれる未開で、迷信的な、低劣な思考だとみなされてきた。西洋では超越的神が宇宙をつくり人間は他に優れた、自然を支配する存在として作られた者としている。だが現代科学は宇宙が神ではなく、真空の無の揺らぎによって生じ、生命も宇宙の運動から生まれたことを明らかにしてきた。自然を対象と見、人間の浅知恵で破壊してきた西洋思想が優れた思想であるという迷信は現代では覆されている。

 日本の神は西洋の宗教的神とは違い、日本人の無宗教と言われるほど自然の概念にちかい神である。(日本の神と西洋の神の概念を対比すべきであるが、それは別の機会にする)

 大和魂は、古くて、最新の科学の基をなす思惟であることを実証しつつある、西洋流に言えば認識論であり、科学方法論でもある。(そのように意識してない人がまだまだ多いであろうが)

 私は、これを「古事記」や言霊の図式的解明で、提示しようと昨年暮れまで考えていたが、正月以来の読書で、この思想はもっと熟成し体系的に仕上げなければ理解を得られないとの結論に至った。云って見れば海に泳ぐイカの描写を、スルメのデッサンからはできない。という訳で「古事記」、言霊についての筆は当分休みとする。

 

実技演習

前第15回で、一教を例にとり、中心をとる(受けの中心軸を、取りが我が中心でとらえ、受けの重心を我が丹田に収め取る)ことの大事を述べた。

 この大事は片手取り、交叉取り、突き、はたまた横面打ち等々でも全く同様である。今回は、こうした様々な態様にある技を、似て非なる力業にしてしまう、日常動作から脱皮できない“くせ”を意識化し、一般に見受けられる肉体動作をとりあげる。

 

 例えば入り身投げで、受けの背後に取りが入り身したとしても、相対して触れ合った瞬間の“むすび”(受けの重心を取りが我が丹田に収め取り、取りと受け両者が一体となること)がなければ、受けはまだ体勢をくずしていない。それを受けの首筋にかけた取りの手で押し下げようとしても、よほど取りの体力が受けの体力に上回っていなければ動かせるものでない。それを受けの前隅或いは後ろ隅は受けの弱いところだから、そこへ落せばよいなどともっともらしいことを云ッたりするのを聞くが、多分、柔道の八方の崩しからの類推で言っておるのであろうけれど、柔道でも八方の崩しは作りと掛けがととのって機能するのであって、体勢を崩していないものを、単にその方向に押したり引いたりしても崩れはしない。

 また回転投げで、“むすび”もなしでも、取りが手刀を振り下ろせば受けは前方に頭を下げ、ついで取りの腕を握っていた受けの腕を押しやれば前方に転がると思っている者がいるが、合気道の全くの初心者は取りが手刀を振り下ろしても、腕が下がるだけで頭を下げる事はしない、こんなことは取りが手刀を振り下ろしたら頭までも下げ前屈姿勢になるのだと、見よう見まね又は先輩に教えられてしているに過ぎない。

 一教、四方投げの表技では取は触れ合えば次いで受けの前に踏み込むが、この時、中心を取っていなければ、自己の前面を受けの正面にさらし、正面が隙だらけとなってしまう、受けのほうが取りよりも有利な態勢である。取りは両手が塞がっているが、受けは捕られていない腕は自由であるから取りに当身その他の攻撃が自在にできる。そこで受けの腕をひねり下げる、又は肘関節を逆に取り、吊り上げて浮かせるなどと云っている者がいるが、これも受けの体力が取りにかなり劣っているのでなければ出来はしない。

 事例を挙げればきりが無い、要は中心をとらずには、次なる動きはない、その後の動作は全て嘘である、もっともらしい嘘なので、後進の者は身につけようと無駄な努力をする。これらの嘘ほど修行を邪魔するものは無い、技への道を塞ぐものである。

 上の例のようなことが起こるのは稽古のしようにある。合気道天道館の清水健二師範が「樹木の枝は風にそよぐが、風もこないのにそよぐような、勝手な受けはしないように」、かつて本部道場の指導部長であったころの籐平光一師範は自分から調子を合わせて受けると「いらんことするな」と一そう強く投げたり極めたりした。公開の演武会で「まだ投げていないのに、勝手な受身を取るな、帰えれ」と相手を帰してしまったこともあるそうである。

 型稽古の難しさの一端がここにある。取りにしたら中心をとってもいないのに、自分から体勢を崩されては、中心を取るということを学べない。受けにしても自分から勝手に転がっていては取りの技が正か不正かわからない。双方稽古にならない。

 無理な抵抗で頑張れというのではない、自然であれという事である。中心を攻めてきたら受ける、外れていれば受けは自分から勝手に崩れたり、転がったりしない。そして取りは微調整して正確なところを探る。そのためユックリ稽古しよう、勢いに乗せたり、力づくになりかかったりするのは、正を求めないごまかしの入り込む隙間である。その積み重ねがやがて電光石火の早業も可能にする。

 “むすび”の第一段階、中心を取ること、この会得をまず第一として、それからの動きは次第にできてこよう、しかも急速に。なのに中心を取ることの稽古より、その後に続く動きにばかり熱心な者は多い、それでは後に続く動作も肉体的運動ではあっても合気道にはならない。むしろ長年やっているほど下手を固め合気もどきになってしまう。

 

今回は 片手取り一教、四方投げ

    正面打ち入り身投げ     で中心を取る を稽古する。

 

了  

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