26回  2009.March.05   金子信造

B自然成長的な日常的動作

 重力は力の源である。ヒトが二本足立で動くということは、足裏で地球から貰った力(重力)の対抗力(反作用)を、筋力が調整して使う事である。

ところが、自然成長的には重力はヒトの身体運動を制限するものとして顕われる。

赤ちゃんが立ち上がるには脚を踏ん張らければならないし、身体に被った布団が邪魔なら腕を突っ張って、跳ね除けなければならない。身体の自由を得るには、腕や脚のような外部と直に接している部分の筋力で処理するのが当然になっている。

直接に仕事をする部分で力む事が動く事であるのが日常動作の習慣になっている。力む事、頑張る事が仕事をする事だと思い込んでしまっている。刻苦や難行苦行することが人生だとする考えまで生まれる。

     C“むすび”するために重力に任せ重力で動く

ヒトは地球の中心で、地球上の全てのものとむすばれる。“むすび”は重力に任せて立つ事、そして重力で動く事で実現する。

筋力で頑張らずに重力に任せ楽に動く。直接に仕事をする器官に力を入れてはよい仕事は出来ない。

     D身体を分化して使う

道具は課題ごとに、例えば雨が降れば傘を、ネジを回すにはドライバーをと、働きの違う道具を、それを使う時だけ取り出して使い、用が済めばしまっておく。身体の諸器官も働きに応じて使い、用が済めば休ませておく。「働く部分と休む部分、働く時間と休む時間、必要なエネルギーと不必要なエネルギーというようなことを、高度に精密に細分化されなければならないし、それに対する精度、感度の高い感覚が要求されてくる。胸がひとつの籠であったり、背中が一枚の厚板であったり、腰や足の裏がひとつの塊であったり…というようではまったく話にならない。」(野口三千三「原初生命体としての人間」岩波現代文庫.P9)    

1.               働きに応じて身体を各器官ごとに細分化して使う。

     E意識と無意識(無心)

 見知らぬ町に単身赴任したとき、ビルや商店、信号の配置など意識して覚え、はじめはたどたどしい足どりで通勤したものだが、やがて馴染んでくると無意識に難なく歩けるようになる。タイピングのブラインドタッチやピアノの打鍵も習い始めは意識して、指の位置など覚えなければならないが、やがて無意識に自由自在になってくる。それでも何かの弾み、何かに気をとられるとかで間違ったり、何か特に気づいたら意識が顕われて行動を調整する。普段はし慣れたことは無意識に習慣的に遂行される。

 八方へ気を配ろうとすると、意識してむしろ全身緊張して硬くなってしまって、何処から攻撃されるか分からない不意打ちなどでは、どの方向へも対応できない。意識せず全身弛んでいてこそどの方向でもはたらける。十数年も前であるが、テレビで野村万作氏が「私たちの身体は、つねにステイしているのです。」筋肉を固めておかないということは分かっていても、リラックスしようとしてもなかなか出来ない。幼時から叩き込まれた修行でステイしている身体を創られたと語っていた。静中の動である。静止していても、何時でも、何処へでも即、応じる。意識も身体の道具として、必要な時だけ使えばよい。

 日常動作から武術への切り替えは、他分野でいえばピアノならばバイエル、バレエなら「パ」の訓練、油絵のデッサン、書道の運筆など、意識的にこれまでと質の違う動きを訓練し、それを無意識化してゆく過程である。これらは日常動作と質の違う動きの体得なしにないこと知らねばならない。武術は日常動作の延長にはない。

 日常動作から技や術と呼び得る動作への転換は、このように意識的訓練からはじまるが、意識的運動は意識の向けられた部位への力の偏りが避けられない、全身の協調は偏りを無化し、意識では捉えられないまるごと渾然一体の、全身協調を発現させる、無意識化への過程である。

 無意識が常態であって、ほとんどのことは無意識に行なわれる。人は常に目標に向かって意識して頑張るのが美徳であると思われているが、そんなことはない。意識は必要な時だけ使い、無心に楽に遂行するよう仕組まれている。

 尚、八方分身と、多敵の位とは違うと思う。開祖は敵が多勢でも、一人の敵と思って戦えと教えられた。武蔵も多勢を相手には一度には、一人に対するようにして戦えといっている。囲まれた場合の勝機はここにあるだろう。八方分身の何時、何処から、どのようにの条件が無限定であるという意味での無には、対応は無心しかないであろう。(これにはまったく気配さえなかった不意の攻撃も含まれる。)多敵の位「一人の敵と思い戦え」は、一対一的な態勢を作ることであろう。(私はこの機序が体現できない。あるいは問題の立て方が違っているのかも知れない。工夫中である。)

 動物は環境と相互循環的に呼応しあっている。.適応ということである。意識はそこに現れる。だが問題は沢庵の「不動智神妙録」の「無心」や、荘子の「来たらば、即ち迎え、去るに任せる」を八方分身的にも実行できるかどうかである。(多敵なら修行進度次第であるだろう。)脳科学でいう「アウェアネス」(気づき)の存在、非存在の問題だとすると、意識は何かについての意識として対象との相対である限り、脳の働きである意識では八方分身は行えない、環境との一体、直接知覚としての無心の即応でなければ実現できない。(ベンジャミン・リベット「マインド・タイム」岩波書店))

 「あらぬものとして、ある」無からの攻撃への無心の対応。サルトル流には、恋人の魅力の本質を考える(脳の働き)よりも、恋人を抱きしめ接吻し、合体してしまう事。「実存は本質に先立つ」。(サルトル「存在と無」参照)。恋人の肌ざわり、香しい息、接吻での甘い唾液のやり取り…身体的プロセスを含めて「こころ」が働き、デカルトの物質と精神、身体とこころのように別々ではなく、頭蓋骨の中身は身体の一部であり、物質的過程をふくんでこころなのである。(こころの定義は大和魂の論で改めて議論する。)

     F丹田力で全身協調する

 手指の関節を働かせる筋肉は手首、手首は肘、肘は肩というように、一般に関節はその一つ奥の筋肉によって動く、窮みは足裏の対抗力(重力の反作用)を力とする、身体の重心である丹田(腸腰筋)に行き着く。

2.               したがって外部と直接に触れあっている部分では力まない。

脊椎動物は魚類から始まる。魚は脊椎と、脊椎につく筋肉を動力源として運動する。鯉などは水面から1〜2mも飛び跳ねる。カジキマグロは時速100kmで回遊したりする。後に手足となるヒレは脊椎から離れ、独立しているバランスや方向をとるための情報処理器である。

 ヒトは陸上で直立2本足立ちするため、脊椎の下部を骨盤とし、脚で支える。大腿骨は骨盤の付け根では外側に「くの字」に張り出し、背骨もS字で(ヒトの赤ちゃんも歩きはじめまでは背骨は弓状で他の哺乳類と同様である)直立しての重力に対抗する力学構造となっている。骨の仕組みは一本棒の垂直ではない。頭は頭蓋骨の底辺の中央に大孔があり筋力を殆ど要せず首に乗る。(サル以外の4足の哺乳類は頭蓋骨が脊柱の前寄りにつながるため頭を後方から引っ張って支えている。)

骨盤は仙骨と腸骨を仙腸関節でつなぎ、全身のバランスの調整をするが、骨盤を一塊としか感じない人はバランスがとれず、微細な手先での仕事や、ピストル射撃など、本来全身の協調でバランスをとって、ブレない仕事をすべきところを、息を詰め身体を硬直して正確さを出そうとする。力んでいるから上手く行かない。腕につながる肩関節や肩甲骨は、鎖骨の一番内側と胸骨とを胸鎖関節でつないでいる。これは胸骨が胸椎からの力(背骨の力)を伝えるのであるから、それらも働きに応じて分化して使われ一塊ではない。仙腸関節が、関節として働かないと、こうした上体をも拘束してしまう。

人は訓練してないと、一心になったとき息をつめる(こらえる)これについては葉山杉夫氏のヒトの樹上運動と息こらえ効果の研究が出色である。(これは本筋は発声言語(ことば)の発生についての研究である。)氏はオリンピック出場経験の二人の体操選手と剣道、柔道の選手を被験者として実験し、腕渡り運動で、体操選手は肩関節が単なる力の伝達関節であることを示し、剣道と柔道の選手は右手を棒にフックする時、上肢がねじれ、この時、息こらえを認め、肩関節が軸関節として機能している事を観測した。『胸部の「籠」と連結している肩関節が力を発揮するときに運動支点となる「籠」を強固に固定しなければならない。「籠」を強固に固定するのが「息こらえ」である。つまり息こらえは三次元運動中の落下阻止の安全装置の役割を果たしていたのである。』(葉山杉夫著、「ヒトの誕生」PHP新書、p153〜4)

又、この書の周防猿まわしの研究は、古典的調教方法から脱却し、生物機構学の理に合った「根切り理論」という調教法を編み出した「周防猿まわしの会」初代会長、村崎義正氏の調教する猿で行なわれた。これはサルの二足歩行を@二本足で立つ、とA二本足で歩くの二段階に分ける必要性に着目、まず起立姿勢の訓練で数日から数週間で二本足で立ちつづけられるようになる。これがニホンザルの四肢性を断ち切る「根切り」である。根切りが終わって初めて歩く訓練に入るが、根切りの終わったサルの二本足での歩行はきわめて容易である。レントゲンで見て、サルの骨盤が垂直に立ち、背骨もS字状になり、四肢で立たせてもS字状湾曲が消えない。

『いっぽう真っ直ぐに立つ訓練をせずに、いきなり二足歩行の訓練から入ったグループのサルは周防猿まわしのサルほど腰は伸びず、前傾姿勢のままである。このサルは調教三年後のエックス線写真で調べてみても、四肢で立った姿勢の背柱は、ニホンザル本来の背中のほうへ凸型のカーブを描く第一次湾曲のままであった。』(杉山著、「ヒトの誕生」、p106

 日常動作から武術への転化も、日常動作を「根切り」しなければならない。日常動作そのままへの反省なしの無理論では武術にならない。

不合理な日常動作を「根切り」しなければ、一生懸命努力すればいつか合氣できるというものではない。数十年練習したからといっても四肢性から開放されないサル同様である。

 自動車に例えれば、丹田はエンジン、手や足はハンドルやアクセル、ハンドルを回したり、アクセルを踏むには大きな力はいらない、手や足は情報処理のために働く。また鞭に例えれば金槌のような塊は腕が鞭となって、塊を鞭の先端につけて打ち下ろす。その腕も体幹部からつながって、根元の僅かな力が、先端に伝わって、時に鞭の先端が音速を超える時、激しい音を発するように、働きは増幅される。

3.               丹田力が滞らずに、素直に先端に通るように身体は固めずにしなやかに柔らかに使う。

 合気道は形で稽古する。一教の形、四方投げの形等々…である。これを外形の真似、なぞりで行なっていては、日常動作の延長で、武道とは到底いえない。開祖はじめ諸先生から伝えられた動作法を、次回から披露してゆくが、諸科学がそうであるように、言葉で表されたことは、全て仮説にすぎない。各自が仮説を立て、実験し身体で現わす。これは集団的稽古時間では無理がある、そこで集団稽古終了後30分あるから、この時間で各自の今の課題を実験できる仲間を作り工夫を重ねる必要がある。その為には、毎回、稽古の統括者は集団稽古の終了時間をできるだけ守って、技習得のための貴重な時間を確保出来るようにする事を希望する。

G呼吸

 大気に包まれた地球に人類は生まれ、生きているとは、息(呼吸)していること、息絶えれば死である。普通生きていれば意識なしに呼吸している。大工の鉋かけの修行では、一息に長い柱を削り上げる、途中で息継ぎをすれば表面に跡が残る。運筆では筆先の勢い、止め、はらいは書き手の息が書体に現れる。空手の直突き、刀の振り下ろしは吐く息にあわせて行なう、吸いながらではヘナヘナ拳・剣法になってしまう。

 運動動作は呼吸と骨、筋肉をふくむ全身体構造と連動している。仕事の要領を会得すれば呼吸を得たという。共にスムーズに仕事を仕上げれば息が合ったという。

 28億年前ごろ、ラン藻類が太陽の光エネルギーを光合成によって酸素を作り出し、このエネルギーを使う術を身につけて人類は誕生した。

 人類の遠い祖先の小型無脊椎動物は水中に生活して、水中の酸素をエネルギー源としていた。はじめは体の表面から摂取していたが、次第に大型化し、構造も複雑化してくると、酸素摂取の効率化が必要となり、鰓で呼吸するようになった。4億年以上前のことである。この頃(シルル紀やデボン紀と呼ばれる時代)に水中から陸上へと進出するのであるが、魚が水中の酸素では足りず、水面で口をパクパクして大気中の酸素を鰓に取り込もうとしていることがあるが、水辺ではかなりの長期間に口をパクパクさせているうちに食道の一部が袋状に発達して、肺の原型となる構造ができたと推定されている。陸上の呼吸が肺呼吸になると効率よく酸素を取り込め大量のエネルギーを生み出せるようになった。

 「古生代の水の中では『固体の運動』すなわち『泳ぐこと』だけに専念してきた体壁の筋肉も、中生代の陸上ではこれが『肺の運動』すなわち『息の役目』まで引き受けねばならぬはめになってきた、空中でははるかに息がしやすいとはいえ、しかしそれは、心臓のような休みのない動きが要求されるもので、まして疲れやすいこの筋肉にとってはおよそ片手間にできるという仕事ではない」(三木成夫著、「海・呼吸・古代形象」、うぶすな書院)   

鰓呼吸では、呼吸は主に不随意筋、体を動かすのは随意筋ではたらくものが両方とも随意筋が働くため、体を激しく動かすと息があがってしまい、運動を意識的に呼吸に合わせる必要ができた。

4.               肺は自分で動くのではなく、肋間筋や横隔膜などのはたらきで拡張・収縮している。

 呼吸は一般に胸式呼吸(主に胸部の肋間筋や呼吸補助筋と呼ぶ首や肩の筋肉を使うが、胸郭は骨で囲まれていて大きくは動けない。)と腹式呼吸(横隔膜呼吸と腹筋呼吸)、に分けられる。ヨガや座禅での呼吸法では腹式呼吸がとられるが、呼吸法は心身の健康法であって、一定時間内の長く深い呼吸の鍛錬であり、四六時中するものではない。身体運動との調和では速く短い呼吸も必要であり実際には胸腹式呼吸を行なっている。

 呼吸運動は、意識的に呼吸筋を制御する随意運動と、無意識に営まれる不随意、自立運動の二重の構造をもっている。これは他の自律神経系、消化や循環などと大きく異なる。心臓や腸の働きを随意にはできない。呼吸も随意に出来ることはごく一部のことであって、内呼吸または組織呼吸とよばれる過程は自律神経系である。とはいえ呼吸は意識と無意識の橋渡しをしている、全身体の制御と呼吸制御は一体となって働くよう意識的訓練をし、無意識化しなければならない。どちらも無意識である事が常態である。

 

 以上が武道的身体図式への転換の見取り図である。第22回〜第24回で見てきたヒトの機能をどのように使うか、次回から伝えられる練習方法を提示してゆく。

 

実技演習

一教各種       四方投各種



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