心が温かくなった日

[心が温かくなった日]

                            <吉家世洋>

数日前、合気道仲間数人と居酒屋へ行った。 メンバーは、全員が数十年稽古を続けている有段者だった。
熱燗を酌み交わしながら、キツイ冗談まじりの合気道談義が始まり、ひとしきり談笑、爆笑が続いた。しばらくたって、ふと笑い声が途切れたとき、六段の先輩がポツリといった。
「みんな、何で合気道を続けているんだ? 楽じゃないことも多い稽古を何で何十年も続けてきたんだ?」  面々は、盃を運ぶ手を止め,急に真面目な顔つきになって自問した。各々が答え始めた。
「体が合気道中毒みたいになっている。2週間も稽古をさぼると、何かからだが気の抜けたようになって心地よくない」  「稽古で汗をかくと、日常のもやもやが吹っ飛んでスッキリする」  「定期的に稽古してると運動不足が解消されて、頭もハッリキリする」  いちいち共感して聞いているうちに、自分の脳裏にも一つの 実感が湧いて来た。それを率直に答えた。  「えーと、私の場合は、合気道の稽古をした後は、心が元気になっているような感じがします。
 だから稽古に行きたくなって、なんとなく続いているんですね。」 すると、最初に問いかけをした先輩が、私の顔をまじまじと見ながら言った。 
「うーん、そうか。もしその答えを二代目の道主が聞いていたら、お墓の下で、顔をクシャクシャにして喜んでるぞ」 
予想外の言葉に、思わず訊ねた。 「え、どうしてですか?」 先輩は、追加で運ばれてきた熱燗をグビリとやってから、ゆっくりと説明し始めた。
「あのな、みんなも知ってる通り、開祖は、優れた武道としての合気道を創始されて、合気の道の探求を通して技や心身の高みを目指すことをといておいられた。 道の探求の中には、実践的ということも大事な要素として入っていて、稽古方法もそれを重視した傾向があった。
開祖の頃の合気道は、今より武術的特性が濃かったと思う。 だから、
当時の合気道の稽古についていける者は、やはりある程度限られていたようだ。 誰にでも出来るというものでもなかった。でも、二代目の道主の時代になってからやや様子が変わったんだな。 実践的な技の追及より、健全な心身や感性の育成ということが前面に出されてきた気がする。 それに伴って、稽古法も開祖の頃よりは大分ソフトになった。 おかげで合気道は、子供でも女性でも年配者にも始めやすく、入門し易くなった。 その結果、二代目道主の時代になってから合気道人口が大幅に増えた。 二代目は、合気道の普及という大事な役割を果たしたんだ。もちろん、健全な心身や、感性の育成ということは、開祖の教えと異なるものじゃない。
 開祖が説いておられた、技や、心身の高みを目指せ、 という事と、基本的には一致している。 ただ、二代目道主は、社会状況の変化に応じて、稽古法の指導方針を少し変えただけなんだと思う。

 やはり、肩肘張って意識しなくても、稽古を続けていれば、自然にその人なりのレベルで心身が向上することが、開祖から二代目、三代目に伝承さえている合気道の根幹に触れる所じゃないかな。特に、二代目道主は、心の向上ということを重視されてた様な感じがする。 だから、いまお前が言った『稽古の後、心が元気になっている』という答えを二代目が聞いたら、お墓の下で喜んでいる。 もしかしたら、こんなことを言ってるかもしれないぞ。  『うん、うん。 お前はいい子だなあ』

 居酒屋を出てみんなと別れ、岐路のバスに乗った。 窓の外を流れていく街並みに、細かい雪が舞い始めていた。それを見たとたん、ふいに、心が 「ふわーっ」 と暖かくなっていることに気づいた。


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